2014-09-24

<プロフィール>

丸山 良明/Maruyama Yoshiaki

Rangsit F.C. (タイ Division-2)

 

早稲田大学卒業後、横浜マリノスに入団。その後、モンテディオ山形、アルビレックス新潟、ベガルタ仙台、AC長野パルセイロでプレー。2009年にタイプレミアリーグのチョンブリーFCに入団。翌年は同じくタイプレミアリーグのタイポートFCに移籍。2011年シーズンまでプレーした後引退。その後、バンコクグラスF.Cのアカデミーのコーチとして指導者の道を歩み始める。現在はタイDivision-2に所属するランシットFCの監督を務めるとともに、Jリーグアジアアンバサダー、CREER FC代表としても活躍中。

(Photo: Yu Nakaniwa)

 

14年シーズンからランシットFC(タイ Division-2)で指揮を執る丸山良明。今でこそ日本人選手にとってタイでプレーすることが一つの選択肢となりつつあるが、丸山良明こそその流れを作った最大の功労者。自身のタイとの出会い、現役最後を過ごしたタイでのシーズン、更には指導者として日々の挑戦に迫った。

 

-改めてタイに来た経緯を教えて頂けますか?

 

思い返してみるとアルビレックス新潟を2005年シーズンを最後に退団し、その後半年間浪人生活を送りました。ベガルダ仙台に入る前ですね。アルビレックス新潟でプレーしていた2005年シーズンに大きなケガをして、その年の12月7日に手術をしました。ケガもあってアルビレックス新潟を戦力外になりました。もちろん故障してる選手はどこのチームも獲らないし、このまま引退かな?なんて考えもしました。けれども応援してくれているサポーター、僕の復帰を心待ちにしてくれている方々もたくさんいましたので、このまま辞めるのは悔しすぎて。どうにかケガを治してもう一回トライしようと決めて、それからリハビリ生活を始めました。大きな手術だったので、普段の生活が出きるようになるためにリハビリからです。

 

グランドでのリハビリが出来るようになったのが2006年3月頃。長い間サッカーから離れたので感覚を取り戻すために、どこかのチームに入ってリハビリする必要がありました。そこでアルビレックスシンガポールで練習参加させてもらうことになりました。シンガポールなら気候もいいし、また僕がアルビレックス新潟に在籍している時に出来たチームなので、立上げの様子やプレーしてる選手も知っていて興味がありました。当然自費での参加です。トータル3ヶ月くらい練習させてもらいました。その時に東南アジアのサッカーに触れて新鮮な衝撃を受けました。自分が今まで携わってきたJリーグはある意味全てが整った環境です。その感覚からするとシンガポールで触れたサッカーは「そこから仕掛けるか」とか「そこからシュート打つか」と、自分が小さい時に楽しんでいたサッカーを思い出させるものでした。クオリティでいうと決して高いとは言えませんでしたが、どこか惹かれるとこがありました。

 

しかしながらその時はJリーグに復帰することしか考えてなくて、また運よくベガルタ仙台に復帰することが出来ました。それでもシンガポールで過ごした3ヶ月で、今までどれだけ選手として守られていたんだろう痛感させられました。「横浜マリノスの丸山です」「アルビレックス新潟の丸山です」と言うと、ことがスムーズに進むことが本当に多かったのですが、浪人中は、どこにも所属していない、一個人でしかなく『プロサッカー選手』という肩書が外れた時の素の自分と向き合うことになり、本当に多くのことを学ばせてもらいました。この半年間のサッカー浪人生活での経験がその後の僕の原動力になりました。

 

-日本に帰ってからはご自身の行動に何か変化はありましたか?

 

ベガルタ仙台に入ってからは客観的に自分の立場を見れるようになりましたし、また次にプレーしたAC長野パルセイロに入ってからは尚更現役選手としての影響力は大きいと思うようになりました。サッカークリニックを例にとっても現役選手は自分でプレーして見せることが出来る。選手でいれるうちに広い視野で行動したいと思い始めた頃です。縁もゆかりもない長野、しかも当時は地域リーグに所属。そんな環境の中でも選手でいながら色んな事にチャンレンジしたいと思いました。学校や幼稚園の巡回はもちろん、営業的な動きもして地域を巻き込むように努めました。やはり選手という立場で地域を回ることが一番インパクトがあるので、商店街のお店を片っ端から回ったり、駅で試合日程を挿入したティッシュを配ったり、あとは実際に自分の行きつけのお店をつくるようにしました。1回2回行くだけでなく、何回も何回も通って、お店のマスターに「是非試合を観に来て下さい」と招待。そして観に来てもらった試合でガッチリ握手。するとマスターもそれからはチームに興味をもってくれるんですよね。そういう拠点をいくつも作っていきました。そんな事をやりながら、「面白いな」「やりがいあるな」と感じました。しかしながら、その年、チームは上のリーグに昇格できなく、またメインスポンサーが降りたこともあってプロ契約だった自分は戦力外。そこで頭に浮かんだのが東南アジア。挑戦するなら今しかないと。

 

-それからタイに来られたんですか?

 

最初は自分も滞在経験のあるシンガポールでチームを探しました。そしたらいい反応をくれたチームがあって具体的な条件までも出てきました。今でも忘れもしないですけど、新潟にある旅行代理店から「今からシンガポール行きのチケット買います」と当時仲介してくれてた方に電話したら「あと一時間待て」と。「えっ?いや待ちたくないですよ。こっちは条件もOKしてるんだから」。そして一時間後、その方から電話で「すまんが、今までの話はなかったことにしてくれ。君より若くて安い選手と契約した」と告げられました。その時気づいたのは、日本から電話やメールでやり取りしていても何も進まない。自分で現地に乗り込んで実際にプレーして見せて契約してこないと、決まるものも決まらないと。今となったらよく分かりますけどね、そんなの当たり前だと。

 

それで目が覚めて、シンガポールに乗り込んだんですけど、殆どのチームが外国人選手との契約を終えていて枠がなかった。さぁどうしようと思って、ただこのまま引退するって気にもなれなかったちょうどその時、たまたま知り合いのスポーツ新聞社の方がヴィタヤさん(現チョンブリーFC)に「丸山が東南アジアでチームを探している」と話してくださり、また当時ヴィタヤさん(当時ガイナーレ鳥取監督)がたまたまチョンブリーに帰っててあと数日滞在すると。その話しを聞いて「すぐ行きます」と荷物をまとめてシンガポールからタイに飛びました。そしてたどり着いたのが、タイのチョンブリーというチームでした(当時話をしてくれたその方がいなければ僕のタイ行きはなかったともいます)。

 

まずは練習に参加してヴィタヤさんと当時チョンブリーFCの監督をしていたキャティサック(現タイ代表U-23監督)が「使える」とチーム側にも伝えてくれました。しかしそこからなかなか本契約まで進まないんですよ。次の練習試合を見て決めるって言うんですけど、監督が来なかったりGMが来なかったりで、「契約の話しはまた来週」となり。結局それが4週間くらい続いて、僕もさすがに「次の試合を最後にする」と伝えました。最後、結局監督は来てなかったんですけど、何とかチーム側とも話しがまとまってようやく契約することが出来ました。今でこそチョンブリーFCは日本流が浸透してきてますけど、僕が来た頃は初めての日本人選手という事もあり、まだ色々と整っていないことも多く、最近では「あぁチョンブリーもここまでになったんだなぁ」と、嬉しさと同時に少し羨ましいですね(笑)

 

-入団当時の生活の様子はどんな感じでした?

 

入団してからはチームの寮に住んでました。後に三浦文丈さんや小村徳男さんが来た際に「丸、ホントにここに住んでたの?」って驚かれるくらいの寮です。ゴキブリや蟻がいっぱいで臭いもひどい。また当時の日本人選手の価格は月給は4万バーツ。さすがに当時は奥さんをチョンブリには連れて行けず、バンコクに住んでもらい、給料は全て渡してました。自分はほぼ勝利給だけで生活してましたので、使えるお金は一日100バーツ(1バーツ約3円)くらい。屋台やチームが出してくる食事で生活してましたね。35、36歳になりながらも、なかなかタフな生活をしていましたね。

 

-奥さんは何と仰ってました?

 

僕自身サッカー一筋で進んできた人生でしたので、キャリア最後の僕の気持ちをすごく理解してくれてました。不安も多かったと思いますが、一緒にタイに来てくれました。当時はバンコクとチョンブリーで離れて暮らしてたので、すごく苦労をかけてしまったと思います。本当に言葉で表せないくらい感謝の気持ちでいっぱいです。

 

(Photo: Bangkok Glass FC)

 

-初めて触れるタイサッカー。最初の印象はどうでしたか?

 

一言で言うと、上手い。試合というより遊びの中でのボール扱いがうまい。小さい時にセパタクローやムエタイをやってた経験から股関節の使い方が日本人と少し違う。日本人が嫌うような間合いをタイ人は嫌わないでギリギリのタイミングまでボールをさらしといてかわせる技術がある。独特なボールの持ち方と間合い、日本人にはない上手さと器用さがあるなと感じました。ただ試合となるとそれが活きない。必要のないプレーがあったり、チームとして勝つためのサッカーではなかった。正直凄くもったいないな、との思いが湧いてきましたね。

 

-その中でどう行動されたんですか?

 

自分の特徴は、試合の中で僕はあんまり目立たないことだと思っています。つまり、オフザボールの時に組織をしっかりとオーガナイズして、リスクマネジメントが的確で、自チームの特徴のある選手をうまく使えるプレースタイル。自分のところにボールが来る前に周りで止めるといったことがタイでは簡単には出来なかった。また日本では当たり前のように選手同士で言い合ったり出来るけど、タイ人はガッと言われることに慣れてない。恥をかかさせてると思うから聞かない。最初は「丸山が出てると雰囲気悪いぞ」といった感じで孤立しました。

 

これはまずいなと思って、目的は同じなんですけどアプローチの仕方を自分なりに変えました。まずは褒めるようにしました。いいプレーした選手には「ナイス」「スッジョーイ」「ディーマーク」と他の選手に聞こえるように少し大げさくらいに褒めてからアドバイスする。あとは自分がしっかりプレーする。自分が説得力のあるプレーができなければ周りは何も聞いてくれません。何で丸山はこんなプレーが出来るの?と興味を持ってもらうようにしました。その辺りから結果も出てきたし、チームも自分の意見を聞いてくれるようになりました。当時チョンブリFCのキャプテンをやってたPipobも皆を集めて「丸山はこう言ってる」と言ってくれたり、本当にありがたかったですね。

 

(Photo: Bangkok Glass FC)

 

-当時のタイのタームの規律面は如何でしたか?

 

そこはどのチームも一緒で時間や場所の突然の変更なんかは当たり前。時間が変わっても誰も教えてくれない。教えてくれないんじゃなくて、自分で聞かないとダメなんですよ。当時、自転車を購入し、一人で「えっ、今日ここのグランドじゃないの??」とグランドからグランドへ走り回っていましたね(笑)。

 

- それを受け入れるのも難しいと思うのですが?

 

最初は葛藤しました。いろいろな面で、「何でこうなの?こんなだったらもういいやぁ」と思ったりもしましたけれど、ここはタイで、タイ人社会の中で生かしてもらい、タイサッカー界の中でプレーさせてもらってる、と理解に努めました。最初は俺は日本から来たって意識がありましたけど、それは結局勝手な自己満足で、タイには何の貢献もしてないじゃないかと。無意識に日本のやり方を押付けようとしてしまっていたのだと、すぐに気づかされました。自分の価値観なんてここでは何の役にも立たないと。

 

<後編につづく>

(Photo: Yu Nakaniwa)

 

Text : ASEAN FOOTBALL Link

Photo: Bangkok Glass FC & Yu Nakaniwa

 

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